浄土宗とは?

法然上人が、1175年に浄土宗を開宗されました。

法然上人は幼少にして父を失ったことを機会に、父のおしえのままに出家。比叡山にのぼって勉学し、当時の仏教・学問のすべてを修した後、ただひたすらに仏に帰依すれば必ず救われる、すなわち南無阿弥陀仏を口に出して称えれば必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、お浄土に生まれることができるという他力のおしえをひろめられました。

貴族だけの仏教を大衆のために、というこのおしえは、日本中にひろまり、皇室・貴族をはじめとして、広く一般民衆にいたるまで、このみちびきによって救われたのでした。どこにいても、なにをしていても南無阿弥陀仏を称えよ、とすすめておられます。南無阿弥陀仏と口に称えて仕事をしなさい、その仏の御名のなかに生活しなさい、とおしえられています。
こうしたおしえがひろまるにつれて、その時代の新しい宗教であったため、いろいろなことで迫害をうけましたが、そのときでも、法然上人はこのおしえだけは絶対やめませんという固い決意をあらわしておられますし、また亡くなるときにも、わたしが死んでも墓を建てなくてもよろしい、南無阿弥陀仏を称えるところには必ずわたしがいるのですといって、その強い信念を示されました。

亡くなってから七百八十余年になりますが、その遺言とは反対にお寺がたくさんできたということは、いかに法然上人のおしえがわれわれ民衆と共にあってそのおしえを慕わずにおられなかったか、という心のあらわれであります。南無阿弥陀仏の仏の御名は、すぐ口に出して称えられます。
できるだけたくさん口に出して称えるほど、私たちは仏の願いに近づくことになるのです。するとわたくしたちはすなおな心になり、今日の生活に必ず光がさし込んできて、生き生きとした、そして、平和なくらしができるようになります。それは明日の生活にもつづいて、日ぐらしの上に立派な花を咲かせてくれます。
法然上人のおしえは、今生きることによろこびを感じることであります。

宗旨

*名称
浄土宗(じょうどしゅう)

*宗祖
法然上人(ほうねんしょうにん)(法然房源空(ほうねんぼうげんくう))(1133~1212)

*開宗
今から820年ほど前、承安(じょうあん)5年(1175)

*本尊
阿弥陀仏(あみだぶつ)(阿弥陀如来(あみだにょらい))

*教え
阿弥陀仏の平等のお慈悲(じひ)を信じ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とみ名を称(とな)えて、人格を高め、社会のためにつくし、明るいやすらかな毎日を送り、往生(西方極楽浄土に生まれること)を願う信仰です。

*お経
お釈迦(しゃか)さまがお説きになった『無量寿経(むりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』の浄土三部経(さんぶきょう)をよりどころとします。

宗紋

宗紋1

浄土宗の宗紋は「月影杏葉(つきかげぎょよう)」と呼ばれる紋です。
この杏葉は法然上人の生家の漆間家の紋に由来し、大正4年(1915)に、蕊(しべ)は、七個とし、宗歌「月かげ」の月を配した現在の紋が定められました。

宗歌

宗歌

この和歌は法然上人のご真作といわれる和歌23首のうちでも代表的な1首で、鎌倉時代の勅撰和歌集『続千載和歌集』にも選ばれています。
その詞書に「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨の心を」とあるように、阿弥陀仏の光明は全世界をあまねく照らし、どんな人をも救い取るという慈悲の心を歌われたものです。
しかし、月が照り映えていても見ようとしない人には、阿弥陀仏の光明にも気づきません。
逆に月のない夜でも心に月を思い浮かべて月光を宿すこともできます。
信仰の世界では仏心を受け入れる心が大切ですが、この歌は、月の光を眺める人の心としてそれをとらえ、お念仏を称えるわたしたちを守りおさめとる阿弥陀仏の大慈悲を暗示した名歌といえましょう。

極楽浄土とは

浄土のもともとの意味は、仏国土つまり仏さまの国、世界ということで、そこは清らかな幸せに満ち、そこに生まれるとどんな苦しみもないところで、例えば薬師如来の東方浄瑠璃世界、大日如来の密厳浄土など、いろいろな仏さまがそれぞれに浄土を築き、そこで説法していると説かれています。
その中で極楽浄土は、西方浄土ともいわれ、他に極楽界、安養界(あんにょうかい)(土)などともいわれています。
阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩の時に、「命ある者すべてを救いたい」と願って四十八の本願(ねがい)をたて、その願いが成就されて築かれた世界です。すなわち、阿弥陀仏が人々を救うためにお建てになった世界でどんな人々であろうとも、念仏を唱えるならば、命終ののち生まれる(行きつく)ことができる永遠のやすらぎの世界。けがれや迷いが一切ない、真・善・美の極まった世界ですが、単に楽の極まった世界と考えてはいけません。
私たちは浄土において、仏になるために菩薩行をつみ、やがて仏になることができるのです。
四十八の本願の第十八番目が「念仏往生の本願」といい、南無阿弥陀仏を口にとなえるものは、皆極楽に往生できると説かれています。『阿弥陀経』には、西方十万億土の彼方にある国と記されています。

念仏の意味

念仏とは仏を念ずることであり、その念には次の三つの義があります。

*第一には、およそ経典に出てくる念仏の多くは仏を憶念することを意味します。とくに古い経典にでてくる三念、五念、十念などはこれに属します。

*第二には仏の相好等を見ることで見仏、観仏、観念といいます。

*第三には仏の名を称(とな)えること即ち称名で、浄土宗で念仏という場合は、この阿弥陀仏の名号を口に称(とな)えることと、法然上人はその著『選択本願念 仏集』にお示しになりました。